バランス
聞きたいことがあるということは、さて、幸せなのかその逆なのか、とか考えてみる。おそらく聞きうる相手がいるということ自体は幸福というものに分類されるのだろう。幸福から不幸は生まれる。
聞かれるともなく質問されるということは、さて、何をもたらすだろう。その時質問者と解答者はそれぞれ何を失うだろう。希望、未来、失望、夢?
なんでもいいけどそれはたぶん抽象的ななにものかだろう。
抽象は具象と手を結ぶけれど結んだ手と手はしょせん別の手、皮膚は触れるが別の手。でも、それだって嘆くほどのことではないわけで、つまり別々だからこそつなぐ意味だってあるのだ。意味なんてどうでもいいってことでさ。うん。
歩く足が地面と関係するようなものだ。踏みつけるから歩ける。痛いのは当たり前だし、痛みを与えることも当たり前、そう、あたりまえ。
耳と口がうまく働くということがほんとうにできたならどれだけ便利だろうか、とかときどき歩きながら思って、そういうときはすこしだけうつむく。
ossann、大阪から北へ。
気動車に揺られて雪の土地へ。路線乗りつぶしの旅は続きます。
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距離感
ネットでしばらく見ない人のことを心配している人を遠くから見ていた。なんだか少し気になるらしく、冗談混じりの中に少しだけ本気が見え隠れしている。こういうとき「(笑)」という記号が混ざった文章は少し物悲しい。
ネットから離れる、と宣言していたのを知っている者とすれば、頑張って離れているね、よくやっているね、と思う。もしかすると心配する人は、自分と同じくネットにハマったままでなければだめだ、と思っているのか。
もしくは逃がさないよ、と、同類を確保して安心したいのか。
まあ、そんなことはどうでもいいんだ。
消えるというけれど消えたわけじゃないし、消えたところで消せないし、そういうものだけでもけっこう、十二分じゃないかな。
などと言っていたら、そんなものじゃないよ、とたしなめられたことがあったっけ。気がつけばいつのまにやら日は暮れて久しい。
ネットなんてたいしたものじゃないし、思い詰めるほどのことなんてそんなに思っているほどなかったりするし。
均衡の突破
何が問題なのかが判らない。それどころかどこが問題になるかがわからない。そういう人に問題点を見つけさせるのはすこしばかり疲れる。なぜだろう。
つまりそれは、他人の目にならなければいけないからだろう。ある種の抽象に費やされるパワーは馬鹿にならない。抽象は疲れる。では具象はどうか。目の前にあるものを目の前にあるとおりに見るだけというなら、これはこれで楽だ。スーパーリアリズムの絵画。
しかしそれだけではおもしろくもなんともない。いろいろ疲れるというのは、これはこれで楽しかったりもするわけで、抽象的会話で疲れ果てる夜明けってのも、これはこれで悪くない。バランスが崩れるのは、新しいものに手を伸ばせるチャンスであるから悪くはない。
悪くないからといって問題が消えるわけでもないけれど。
で、たいていそういう困惑や疲弊が出るときって注意深くならないといけないのだ。なぜそこにひっかかるか。なぜその問題が気になるのか。それによって、自分の興味の方向性がみえる、こともある。
問題は結局、バランスの中に安住している自分のほうにあったりするのだ。