”家庭の味”の授受儀式

主人公の家庭の味をヒロインは奪う - 森の路はずれ(避難所)

 そして、恋愛が食事と結びついているということは、究極的に、家庭の味を知らない主人公が家庭の味を知るということと、快楽の味を知らないヒロインが快楽の味を知るということを繋げます。ヒロインの処女を奪った主人公の家庭の味を"奪った"ヒロイン、ヒロインに性の愉しみを教える主人公に食の楽しみを教えるヒロイン。

 ギャルゲーにおける性と食の渾然としたダイナミズムは、超絶的な美食が心身ともに理想的なヒロインを象徴し、世紀末的な凶食は心身ともに偏奇的なヒロインを象徴していることを突き止めます。極端に大きいバストや極端に薄い"胸囲"、あるいはヒロインの多様な年齢や性格設定は、プレイヤーにとっての「何が美味しいのか」という"家庭の味"を選択する幅として捉えることができるわけです。

 主人公とヒロインが、擬似的な家族関係のなか、性と食を通して互いが互いの責任を負っているという観念的な紐帯があるからこそ、ギャルゲーは奇妙な存在意義を確立し得ているのではないでしょうか。

 ということで、エロゲーを「家庭の味」という切り口で分析した文章。たぶんエロゲーに限らず、いわゆるヲタな男性文化全般に広げても通用するかも。
 家庭での食事というのがいま現在どうなってるのか、よくは知らない。私はそれなりに自分でちゃっちゃと料理を楽しんでしちゃうほうなので、家庭料理に飢えているという人と話したりすると「そんなの自分でやっちゃえよ」と言ってしまったりする。だって煮物の調理工程管理とか焼き色の調整とかおもろいじゃん。

 むしろ飢えるとするならば、「自分以外の人による調理と、そこに存在する思いやり」だろうか。だれかに淹れてもらったコーヒーは、たとえインスタントでもなんかおいしいよね。

 そういうのと引用先の論説を重ね合わせて、なかなか面白く読んだ次第。結局、人の心にどうアプローチするかっていうのはエロゲーみたいな直截的な手段を持つものでさえもなかなかに奥深いものであるのだなあ。