読書家の条件

かつて読み捨てた質の悪い本の数だけ読書家レベルがアップするのだ、と言っていた先輩がいた。その本が面白いかどうかを考える前にとりあえず読破するのだ、といわれて若かりし頃の私は、はぁ、と気の抜けた返事をしたものだ。

あれからだいぶたって、その先輩のいっていたことも一部、正しいのだなとおもう。もちろん、読みに読んだところでこの世界のすべてを読みつくすことは叶わない(恐ろしいことに、かつては半ば本気でそれが叶うと思ってさえいたのだ)。
だけど、失敗したらどうしよう、ということで読むのを躊躇することほどもったいないことはないというのも、これは事実なのだ。

ところで今はもう読書は趣味ではない。なにが趣味かといわれたら困ってしまう。たぶん、いまは無趣味、なのだ。
本は読むべきものなので普通に読む。けれどただ、それだけのことだ。かつてのように日に三冊以上は読む、ということはない。淡々と、地道に読む、ただそれだけ。


かつての読書体験は、無駄だったとは思わない。たぶん、無駄なことをどれだけすごしたか、そしてその結果、のりしろをたくさん持つことができたかが大切なのだ。そののりしろ自体の価値はまるで無関係に。

思えばかなり遠回りなことだけれど、遠回りが最短路だということなんて世の中にあふれている。その例外なんて、実は少ないのかもしれない。