乾いた泉

 眼球を潤すためだけに涙腺があるのならどれほどシンプルだったろう。潤すためにだけ喉があるのだとすればどれほどトラブルは少なかったろう。でも実際はそうはいかない。流れつづけたり、声も出なかったり、どうしようもなくなったりするのだ。

 目を閉ざすためにはまぶたがあるけれど、さて、どれほどの役に立つでしょう。

 喋ること、考えること、黙ること。いろんなことができるけれど、いろんなことができないということを確認することもできたりして、そして見誤ること、誤認すること、誤解することだってできてしまったりする。

 そもそも、認識とは元来、誤認の謂ではなかったか。どれほど近寄れるかをきそうということはどこまでも近寄れないということなわけで、それって結構、力をなくさせるだけに足りることだったりする。

 どれほど探ってみても他人なんぞわかることはないし、理解なんてどこか表層で止まる。でもそこで止まってお手軽に絶望してみせて、それで終わってしまうってのも、つまらないんじゃない?

 などと考えてはみるけれど、こういうものを届かせるのは言葉というものには荷が勝ちすぎるのだ。荷重オーバーは事故のもとだよ。