そこへゆく

 思いもよらず、懐かしい人たちの話を人づてに聞いた。少しだけ離れた土地で元気にしていると言う。本当かどうかはしらないけれどその言葉を信じる。


 名前を聞いた一瞬、その刹那にだけ浮かんだ風景、匂い。目を閉じた後の残像のような光景、影。その頃の呼吸は今でもどこかに残っている。肺の奥、吐息をどんなに深く付いても吐き出しきれない奥底。雨も濡らすことのない、風も吹くことのない、どこかそのあたり。軽い言葉で流したのは、そういうことについて説明する言葉を持たないからだ。居合わせた人が代わりに説明をしてくれた。それはそれで正しい。けれど致命的な何かを言いおとしている。何を言いおとしているのかについて説明することは叶わない。きっとずっとそれはできない。


 まぶたは閉じて、また開く。目に見えるもの、曲がり角の向こうの猫、雲の上の月、忘れられた日記、かつて交わされていた日常の対話、夏に木立が落とす色濃い陰りの形、そんな記憶、そんなもの、そういうものが消えてなにごとかを残し、その残りカスが深く淀む。ワインボトルに眠る澱のように、壜が揺らされるとときどきふわりと目が醒めて、苦く、甘く、夢を濁らせる。


 ある種の半導体は電子が欠損した「ホール」があたかも移動していくような過程を重ねることで半導体、つまり一方向にのみ電子を移動させる性質の物体として成立する。穴は空虚というばかりでもないのだろう。転ぶこと、陥ること、それによってなにかが駆動されてゆく、風が吹いて空に雲が流れていく。濁った空でさえ音もなく雨を降らすのだ。それがどういうことなのかは、そうだね、いまでもよくわからない。いつかそういうことがわかることもあるかもしれないけれど、わからないままここにいる、そこへゆく。