馴致と飼育

 鈍感になることによっていろいろと楽になる事もある。たとえばピーマン。子供の味蕾は発達しているのでそのアルカロイド性の毒素を明瞭に把握して拒絶する。成長して味蕾が衰えるにつれ、人はその毒を認識しなくなる。


 あるいは感情。試験体に与えられる刺激は繰り返されるほどその反応の激烈さを失う。刺激に慣れるということ。捨てる事、捨てられる事、忘れること、忘れられること。失うという事。得るということ、確保するということ。吐きたいほどの悲しささびしさ。それらは痛さやニガさをそのときは確実に伴っていたはずなのだが、その痛さはいまや幻となり、だがそのあたりについての鈍感さを確保するということは、たしかに生きていくうえで有用ではある。サバイバルにおいてピーマンを選り好みしていては命にかかわる。そしてピーマンも食べつけるとさほど悪くない。


 それは錯覚かもしれない。だがピーマンがおいしいということは、それが仮に幻であったとしても、それは甘美な幻想であって、社会的にもその幻想は快く認知され、承認され、されており、されつづけるだろう。ピーマンのアルカロイド毒は少量摂取する事により高血圧などの循環器系の症状への軽減効果が認められるとの報告がある。



 さて。だが、ではそこまでしてピーマンは食べられねばならないのか。



 食べねばならないと多くの人は言う。だがピーマンをミルクで流し込むのはあくまで自分であって、それを他の人に任せることは残念ながらできない。食べる事を選ぶのか?ではそれは、なぜ?



 食べる必要などない、と言う人もいる。時によってそれは驚くほど多い。それもよいだろう。食わず嫌いの場合もあるが、だれがそれを責められるだろうか。すくなくとも私にはそれはできない。どうやらそのくらいにはまだピーマンについてのこだわりは残っているらしい。ピーマンは緑黄色野菜であり、その中身はウツロであり、種を蒔いても何も生えない。それどころか通常、種はきれいにくりぬかれ、下処理されてから料理される。種が残っている場合、それは下処理の不徹底とされる。だが下処理のあまりにされざることのその多さよ。



 そのあたりへの峻拒、清潔感というものをいろいろな試験体はさまざまに持ち合わせ、とりどりの表現形で表裏を取り混ぜて行動し、あるいは行動を抑圧するということで行動する。マイナスの行動。だが誰がそれを責められようか。