知と理解の距離

http://www.sk-jp.com/mt/philosophical/archives/2005_06/11_034300.html

この問題についての意見を久々に見てふと思ったのは、「みんなものすごい勢いで話題を消費していっているわけだけど、ほんとに消費されちゃってることが多い」ってこと。

インターネット上ではよく、「そんなのはウン年前から言われている」とか「そんな古い話題を」といった意見を見かけたりするわけで、まぁ実際そこで議論し尽くされていたりすることもあるのですが、その経緯と結論と原因をきちんと理解している人は、これらの言葉を発する人の何割くらいでしょう?

その話題が過去にあったことだけが頭に残っていて、それだけで「私はもうその話題は知っている」と言わんばかりに「いまさら」と言ってしまったりすることはないでしょうか?

消化吸収するのは大変です。そのわずかながらの助けになるのは日記だったりするんですが、自分の言葉を少しでも多く書いておかないと、それを見てどう理解したかは結局忘れられていくんですよねぇ。

学びて思わざれば則ち罔し、と。


ちょっとややこしい本を読む。一読しても内容が高度で理解しきれない。言っていることの内容はわかるのだけれど、その内容をそれまでに獲得してきた知識のうちのどこに配置すべきか、関連することはなんであるか、それがつながらない。つまり、ピンとこない。
こういう知識に出会ったとき、それを無理に理解しようとすると一知半解になる。あるいは「めんどくさい」として投げてしまえば成長も進歩もない。進歩がいいかどうかは知らんけど、階を昇る為にわざわざエレベータホールにきたのなら、エレベータが来るのに時間がかかっても待つもんだ。つまりその場で立ち止まることは進むことと等しい。


しかし人間全般、「ただ待つこと」ほど苦手にするものはないのだ。



ところでこれらの「出来事を立ち止まって見、考え、取り入れる能力の低下」って形而上学というか「知についての知」の地位低下と結びついてる気もするんですがどうでしょ。