共有される存在しない夢

2005-06-30

ボクはネットコミュニケーションが大好きで、その可能性に期待しているが、信用はしていない。これはネットコミュニケーションを始めて、数年たち、いろいろ体験したボクの率直な感想である。

この書き出しから語られるネット論に偶然出会った。なかなかおもしろく読んだのでここに紹介。かゆいところについて同時代に没入しつつきちんと論じているこういう人たちがいるかぎり日本の未来は明るいね。まあそれはともかく。



「みんなで暗黙のうちに共有している夢に混ざれるかどうか」で社会の集団に参加し仲間入りすることの成否は決まる。その是非はともかくとして、仲間入りというのはたいていそういうものだったりする。
 で、その夢というのは存在しているのかというと、実は存在していなかったりして、人に問うごとに夢の形も色も違う。違うのに、なぜか言葉で理解しあっている。たぶんその理解は最初からすれ違っていて、でも他者同士である以上は言葉はあらかじめ言い落とすことしかたぶんできないのだろう。ネットワークの上でけっこうそのあたり、最初のころは隔靴掻痒だった。たぶん今でも、たまに思う。おそらくこれは、あきらめの悪さなのだろう。



共同幻想とかトポスとか、そういう呼び方でくくることもできるだろうけれどあえてしないでおく。



 ネットワークは手段を必要としていて、それは常に目的に対しては能力が不足している。電話しかり、メールしかり、文字しかり。言いたいことはいつだってそんなことではないし、聞きたいのはそういう言葉じゃない。
 でもそのうえで私たちは欲望する。なにを言っているの?なにについて?そしていつも失敗していく。
 たぶん、言葉は光のようなものなのだ。かならずどこかに影が落ちて、まともに見れば目が焼ける。



「なにについて話しているの?」と、チャットの場に新たに訪れる参加者は問う。するときまって先住者は言う。「別にたいした話じゃない」。たしかにたいした話じゃなくて、興味を持っているのは単に会話を共有させている場に参加していること、コミュニケートそのものへの参加の快楽だったりする。糸の切れていることを誰もがひそかに知っている糸電話でなにかを伝えようとしても、ね。
 ゆるやかにみんなが夢を見る。異なる床で、異なる夢を、たぶん一つの夢だと思いながら。そうしている姿はみんな誰もが同じで、夢を醒ますことのないように振舞えるならネットワークリテラシーの初級脱出。

 で、それが一番したいことなのか、は知らない。


 夢を見るのは楽しいことだね。そのことが夢だと知っていても、夢の価値は減らない。