「わざわざ恋愛しない」

カトゆー家断絶を見ていたら2004/12/26の「戯言」の更新に、汎用適応技術研究というところの24日更新のテクスト、【わざわざ恋愛しないという選択について】という文章が紹介されていたので飛んでみた。で、興味深く読んだ。
「結婚を否定するってのもアリかもしれないが、恋愛を否定するという選択も別にアリなんじゃないか」といった提起だ。

「してもメリットあったりなかったりするのだから、別にしないでおいてもいいじゃん」といったところを言っているのかな、と読んだ。もしそうなら、私も基本的に同じ思想だ。また、痛々しい恋愛している知り合いなどもいて、見るたびに「やめときゃいいのに」とか考えたり言ったりしたことも一度や二度ではない。そこまでしてやるべきものでもないだろ。

「恋愛行為も特別なものではなく一般的行為のたかだかひとつでしかない」ということなら、つまりは趣味とおなじことになる。するもしないもその人の好み次第ってことだ。変わった方法で恋愛するひともいれば、ほかの人がしているから、ということでする人もいるだろう。実際にいる。しない人もいるだろう。誰もがバスフィッシングやトールペインティングや詰め碁をするかい?


さて、ところでたとえばゲームやらないひとにDQ8を薦めるようなことは誰もしないし、DQ8やって楽しいといっている人に「つまんね」と横からいってみたところでなにも変化はない。だけどなぜかDQ8をしている人は意外と多い。なんでだろ。

恋愛しているひとについても同じことはいえるんじゃないだろうか。利得という側面は踏まえられたうえで、一般行為としてみても、それでもなにか独自のルールに沿ったり反発したりしながら人は動いている。
そうしてみるとこの文章で「コストベネフィットという側面が見落とされてるじゃん」と指摘することは有益だけど、その切り口だけでは取りこぼしているものがあるってことではないだろうか。

ではそれはなんだろう。
そしてたぶん、それこそが人を好きになるという行為のエッセンス。

私?私は、人がどうしようとかまわない。どう見られても、どういわれても、それが自分の行為なら、背丈以上のことなんてできないじゃん。するもよし、しないもよし。その上で行動するなら、ただそれだけのことだ。問題はそれが自分のしたいことなのかということだろう。したいことなら損してもするし、したくないなら金もらってもやらないよ。

選択の問題で、そうするもしないも自由ということなのだという見方には同意する。だとしたらほかの行為一般とおなじで、なにをどう選び、それをどうしていくかという方法論になるんじゃなかろうか。ナンパされて出会おうが、見合いしようが、出会い系サイトで出会おうが、不倫しようが、結婚しようが、二股しようが、性転換しようが、自殺しようが、コストとベネフィットをはかりにかけようが、軽蔑されようが、尊敬されようが、選択しないでおこうが、そういう行為をとる人たちの選択は(自分自身についても含めて)私にとっては等しい。


とかそんなことを考えた。さて、おなじ理屈で「相手によって好かれたときのコスト・ベネフィット論」とかって立てられるだろうか?

・・・あ、それはただの独りよがりな人の理論に堕してしまいそうな予感。