うわのそらのわけ
考え込むことは多いけれど考えたところでどうすることもできないことも多い。
だからこそ考え込むのだけれど、それはあらかじめ、そうやって考える事が無意味であり効果を持たないということを考えた上で考えているのでなければ疲弊するだけだ。わかっていてやる、というのでないなら、考えていても中途半端に右往左往するばかりなのは目に見えている。
かといってわかっていてやっていればいいかといえばこれも微妙な問題で、そうしている以上これは非常に虚無的にならざるをえない。答えが出ないものであると理解した上で考えるわけだから。
自己満足であると言う事を理解した上で自己満足することは非情に効率の悪い行為なので、これもやはり疲弊することに違いはない。
では思考を止めるべきなのだろうか。
そうもいかない。人は生きているかぎり考えるし、自分ひとりで考えているわけでもない。結局、とまることはないのだ。
ということを会話しながらずっと考えていた。うわのそらだったのは、つまり、そういうことさ。