ネームレス

昔、ときどきホームレスをしている知人がいた。駅前でダンボールを敷いてねっころがっている彼に、ほれよ、とワンカップを投げて、しばらく世間話をしたり、昔話した。彼は酒が好きで、文字通りおぼれるほどだった。水のようにウィスキーをあけ、ボトルは次々とあいた。
会話がおわったら私は立ち上がり自分の生活と仕事に戻り、彼は寝転がったまま手を振って自分の世界にもどった。それはけっこう楽しい時間で、気分が転換できた。彼が話し上手だというのもあったのだろう。たぶん実際に楽しかった。

コンビニにおいてある、毎月どころか毎週でていそうな温泉情報やらオートキャンプ情報のムックの編集をしたりしていた彼は、時々燃え尽きていた。たぶん、激しすぎたのだろう。そのころの彼はいつも追い詰められたようだった。あるいは、いつも前に転がり続けることで前に進む人形。

で、ホームレス。

「地面にすわってみろよ」と彼がいう。一緒にすわってあぐらをかいた。人の足音が振動になって伝わってくるのを感じたとき、なるほど、となんだか思った。なにがわかったのかよくわからないけれど、わかった感じ。ダンボールは暖かかった。そのことはいまでも覚えている。

名前を失った存在となるのは、たぶん、視線だけになるためだ。目で見ていることによって死角ができるのが耐えられなくなるのだ。見えるほど、死角も見える。

あのころはよく、彼が見せるひどく暗い目を見ていた。なにがしたかったのだろうか、自分自身についてさえよくわからない。ただ、その目は好きだった。暗く、低く、濁りのない目。温度の低い視線。焦点をあらかじめ欠いた眼差し。乾いた声で互いに小さく笑いながら、くだらない話を延々した。

たぶんきっと、そのころの私は彼を通じて別のものを見ていたのだろう。壁と屋根と名前を欠いた存在。見落とされるべきもの。もう消えた思い出。