スリランカとメディアリテラシー*3
まあ、カタカナ言葉なんて使わなくても論語に「学びて思わざれば則ち
一方、救助隊員やボランティアたちは、自分たちが確かに瓦礫の下からシリセナさんを助け出したのだと誇らかに話している。シリセナさんを助け出した救助/復旧チームは、実はJVPという政治組織のキャンペーンにより編成されたものだという。
JVP(スリランカ人民解放戦線)は、スリランカ連立政権に大臣を送り込んでいるシンハリ排外主義勢力である。ボランティア救助チームの指揮にはバンダラヤナケ運輸大臣が当たっているが、彼も胸にJVPのバッチをつけている。
(中略)
こういう奇跡を捏造して伝えることを一概には否定できないと見る向きもあるようだ。国民を復興に向けて奮い立たせるためには、嘘も方便というわけか。ただ、こういう情報操作は、一歩間違うと特定の勢力に悪用されたり、誰かが迫害を受けるおそれがある。
ともあれ、元記事(下記)を読んで思ったのだが、スリランカに限らず、被災地から伝えられる奇跡のストリーはそのすべてを鵜呑みにはできないということを十分認識しておく必要がありそうだ。当ブログでも、さんざん奇跡のストーリーを伝えてきたわけだが。
今の時代の相がさまざまに凝縮されてスマトラ沖地震に現れているわけだけど、受けてにとどまらず送り手にしたところで、さて、どれほどの精査がされているか。ソースまでつっこんでいる例はすくない。
その一例が、このあいだの地震による自転速度の変化についての報道だ。
地球の自転が地震で変動した、というのはニュースで流れていても、そのソースに書かれていた地軸の変動について*2まるで触れた例をみない。というのも、それらのソースである共同通信の配信が触れてないからなんだけど。つまり共同通信から垂れ流し、チェックさえなし。大手メディアも元のソースにアクセスしていないってことになるわけだ。
メディアの中核にいる人たちでさえこうなら、誤報や思い込み、錯誤が減ることなんてないよね。
このあいだissさんと会話していて彼も知らなかったことに逆に驚いたのだけど、日本の三権のうち、司法についての国家予算比率はもともと少ないところにもってきて、この50年で半減していたりする。*3
概念把握やら反駁といった論理的思考能力と抽象化能力の低下、どこかでそういうところにつながってたりするのかな、とか考えたりする。
ビフィズスカルピス
えーと。なんというかビフィズスという感じで、たしかにカルピスだ。
どっちつかずってこういうことか。
検索してみて、カルピス味の素ダノンco.LTD.という社名だったと初めて知った。合従連衡なのか?
追記:どうやら技術提携のための子会社らしい。しかしすごい名前だ。
さえずることと、うたうこと
唄うことは元からなかった。カラオケなどとは違う、内側からこぼれだすように自然と気持ちが声になり、音階を形作るという意味での歌のことだ。そういう才能が欠けているらしい。気持ちを表現するには歌は素敵な手段だと思う。でもまあ、無理してやるほどでもないけど。これが「取れないブドウは酸っぱい」ということですね。
歌っている人を見ることは、にもかかわらず好きだ。それはなにか、とても人工的ではあるけれど、自然なことのような気がする。メッセージなんてどうでもよくて、無目的で、定見がなく、ただの美しさだけの存在。そういうものは好きだ。
表現とか、発露とか、無理にしているのを見ると苦しくなる。そういうものでもないし、むりやり「ワタシ」を探したりしててもなんも見えないか、もっと悪いことに「それっぽいワタシ」を作り出して満足してしまうだけなんじゃないんですかね。まあ、それが悪いことでもないんだろうけどさ。そんなものなんですか?
目的論
波の数を読もうとしても読めない。
石が投げ込まれるとさざなみが広がる。大きい石ほど大きな波が立つ。石が放り込まれるポイントはおおよそおなじだったりするのは、投げるのはたいてい決まった人だったりすることがおおいからだ。
目立つ場所から石を投げる人を皆は眺め、賛美したり、あるいは謗り、貶す。そういう波が広がって海は埋め尽くされる。とがったり、変わった見掛けの波濤は目に面白い。
波の埋めた海は結局、止まっているようなもの、という人がいて興味深い。どうやら目的もなしに打ち寄せる波に意味を取れないらしい。波のひとつであるに過ぎない君が、立ち止まり、波を眺める。さて、ゆれているのはどちらですか。
波の数を読むコツは、ひとつの波に目を奪われないこと。そのために遠くへ引くこと。
もしそれが叶う夢なら、の話だけれどさ。